高校時代の漢文の教師が、授業の合間にふともらしたのだ。
そういう話に独特の「覚えているやつはずっと覚えている」が「聞いた覚えのないやつは興味すらない」状態で、その後何度か、同窓生の間で話題にしたこともある。
「レイキュウが欲しいよ」だとか「まえ、もしかしてレイキュウ、ゲットしたべ」とかいった具合に。
しかし、その国語教師も、
「この話は忘れてくれ。古来、レイキュウに関わることは、呪いにかかることだとも言われている」と、冗談めかした口調で言った。「あることを《知って》いて、そのうえで《それはない》と否定することは、ひとつの教養なんだな」
とても含みのあるひとことだったが、それ以上をその教師が知っていたとは思えない。
ちなみに、その漢文の先生は、僕らが卒業するその一週間前に、不慮の死を遂げた。
そんなこともあって、当時の《国語少年》だった同級生どうしでも、レイキュウについては話し合うこともなく、どうしても話題にしたいときには、
「あの中国のアレ」とか「すごい果物」だとか、婉曲に言ったものだ。
否定しつつ認めたかった井下さんも、言下にその存在を否定したサンチョも、そういう意味では、レイキュウに関しては俺と同じ教養があるわけだ。
そこを共有していない人に、あまりガンガンとやられることは、小さな子に、
「ねえ、赤ちゃんってどこから生まれてくるの?」と聞かれるような、気まずいことでもある。
あるいは、
「知ってる? 911事件って、ブッシュ政権の自作自演だったんだって!」と、真顔で言われるようなことでもある。
もっと言うと、
「芸能界って、結局のところ、ヤクザが動かしてるんだよ」などと、したり顔で言われるようなことだったり。
あれ? 違うか。
ともかく、何か赤いカクテルを飲みながら、愛子は、
「さて、そろそろ語ってもらいますよ」と言ったんだった。
こちらには少々、不満がある。
彼女にそこまで強気に出られる理由はないのだ。
ひとにものを聞きたいなら、それなりの聞き方があるだろう。
まして、レイキュウなんていう、あまり話したくもないものについてなら、なおさら。